オリーブの日本への伝来の歴史に始まり、テーブルオリーブ市場のあれこれについて調べてみました

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先日、神奈川県相模原市にある株式会社オーエムジャパンのホームページをたまたま眺めていたのですが、ここの「オリーブ」についての説明ページがすごく面白くて読み耽っていました。

日本でオリーブがどのように普及していったか、また、小豆島のオリーブ発展の経緯も詳細に述べられていますし、それだけではなく、テーブルオリーブの市場のことにも触れられていました。

以下に一部を抜粋したいと思います。

日本にはじめてオリーブの苗が上陸して、その後の普及初期

オリーブの伝来は、1862(文久2)年及び1867(慶応3)年に幕府の侍医で西洋医学者 林洞海がフランスから輸入した苗木が最初とされています。
苗木は、幕府医学所薬物園と横須賀に植えたが、現存はしていません。
風土に適さなかったためか繁殖・結実せず失敗に終わりました。

1873(明治6)年に日本政府として初めて公式参加したウィーン万国博覧会の副総裁 佐野常民が、参加翌年の1874(明治7)年にイタリアからオリーブ数十株を持ち帰り、東京と和歌山に植樹しました。

東京に植樹した苗木は枯れましたが、和歌山に植樹した苗木は実を結ぶまで育ち、日本で初めて実ったオリーブとなりました。
しかし、台風や害虫の被害を受け、枯れてしまい現存はしていません。

1878(明治11)年のパリ万国博覧会の事務局副総裁 松方正義、事務官長 前田正名などの尽力により、参加翌年の1879(明治12)年にフランスから2000本を輸入し本格的なオリーブ栽培が始まりました。
フランスから輸入された2000本の苗木は、勧農局三田育種場及び同場付属の神戸温帯植物試験場に植樹され育てられました。
育てられた苗木は、愛知・和歌山・高知・長崎・鹿児島にも植えられました。

その後、神戸温帯植物試験場は農商務省直轄となり神戸オリーブ園と改称されました。

福羽逸人による管理が好成績を収め、1882(明治15)年には果実が収穫され日本で初めてオリーブオイルの搾取及びテーブルオリーブスの加工が行なわれました。
しかし、その後は管理者がいなくなった影響で廃園となり計画も縮小されていってしまいました。

明治初頭の一連のオリーブ栽培の動きは目的がそれほど明確ではなく、先進国の果実・野菜・穀類などを導入し日本の農業に役立ちようなものを選抜しようとする考えの一環でしかありませんでした。
事業としてあまり力を入れられてこなかったからだと考えられています。

日露戦争(明治37~38年)により、北方海域に広大な漁場を獲得し膨大な魚介類の水揚げが可能となり、オリーブオイルを求められ本格的なオリーブ栽培計画が始まることとなります。
魚介類の保存・輸送の手段としてオイル漬けの手段がとられオリーブオイルの国内自給が求められたからです。

普及期初期から小豆島のオリーブ発展の経緯

1907(明治40)年、農商務省が三重・香川・鹿児島を指定し翌1908(明治41)年、3県に各1.2ヘクタールの規模で試験植樹を開始しました。
三重と鹿児島で栽培されたものは生長し開花したものの、結実は不調と終わってしまいました。
しかし唯一、香川県小豆島で栽培されたものだけが順調に生育し、翌々年には開花し結実しました。

1908(明治41)年4月22日、香川県小豆島で定植試験として1.2ヘクタールの規模の畑で始まりました。
同時に三重と鹿児島でも試験植樹をおこなったものの、生長し開花はしましたが結実は不調と終わってしまいました。
しかし唯一、小豆島で栽培されたものだけが順調に生育し翌々年には開花し結実しました。
小豆島へのオリーブ導入の陰には、多くの人々の尽力がありました。

小豆島で最初に植栽したのは、香川県農事試験場の初代場長 福家梅太郎でした。
1908(明治41)年に苗木を携え小豆島に渡り、山野の土質を調べて歩いたそうです。
栽培に適した土地を見つけたところ、そこは水野邦次郎という地主の土地でした。
他にも多くの地主が土地の提供を行ないましたが、特に水野邦次郎の人柄や取り組みが果たした功績は非常に大きいと言えます。

1908(明治41)年の農事試験場にはオリーブ専任の試験担当者は居らず、園芸担当者であった平野秀勝技師が試験を実施しました。
園地管理は、地元の棟保竹松が中心に熱心に行いオリーブ隆盛の礎を築きました。
2年後には開花し結実し、涙を流して喜んだと言われています。
当時はオリーブオイルの搾取に使用する道具がなかったため、醤油製造に使う麻布製の袋に果実を入れて圧搾を行うなど、試行錯誤を繰り返しながらオリーブ栽培を行なっていきました。

1914(大正3)年には、神戸オリーブ園での管理で好成績を収めた。
園芸家 福羽逸人を島に招き、果実加工の第一歩として緑果塩蔵を試作しました。

1915(大正4)年には、農事試験場の佐村利兵衛や高重昌治によって脱渋技術の試験・研究が行なわれました。
福羽逸人からの指示により、木灰汁の中に何日間漬け込み脱渋を行ないましたが、完全に渋を抜くことは出来ませんでした。
佐村らは、アメリカの原書を取り寄せるなど研究を進め、書物の中から苛性ソーダによる脱渋技術を見出しました。

1922(大正11)年から農事試験場では、グリーンオリーブの塩蔵製造の品質向上に努めました。
野呂癸巳次郎が担当技師として在籍します。
その年に摂政宮であった昭和天皇が来島した際には、野呂癸巳次郎がオリーブ園の説明を行ないました。

1925(大正14)年頃からは讃陽商会(のちの讃陽食品工業)の児玉連一が野呂癸巳次郎の指導を受け緑果塩蔵の販売を。
小豆島に農場を持つ和歌山の鈴虫化粧料本舗の島村冨次郎がオリーブオイルを髪油として加工・販売をそれぞれスタートさせました。

1927(昭和2)年には、農事試験場の岸本技師により苛性ソーダで脱渋し塩水で発酵させる果実加工が行なわれるなど、複数の技師による研究は続き、昭和に入り塩蔵技術の改善が行なわれました。
昭和20年代には発酵助剤を加えた果実加工法が一般的に行なわれるようになりました。

1951(昭和26)年、香川県農業試験場小豆島分場が発足し、初代分場長は尾崎元扶でした。
尾崎元扶は、自家不和合性の解明や苗木の育成法の確立など、オリーブ栽培進展の障害となる多くの問題点を解決し、日本におけるオリーブ栽培の基盤を構築しました。
日本で初めて、オリーブ研究分野で農学博士の学位を取得しました。
尾崎元扶のもと、研究に尽力したのが笠井宣弘と三木隼人でした。
笠井宣弘は、オリーブの収穫後すぐに塩水貯蔵することによって果実中の油品質を安定させる技法を考案し、
三木隼人は、温度管理や湿度調整などによってほぼ年間を通じて挿し木による多量のオリーブ苗木を供給できる技法を確立し、年々収穫量は増加していきました。

1964(昭和39)年には香川県内における栽培面積が130ヘクタールに達し、果実の収穫量も400トンを超えるなど日本産オリーブの最盛期を迎えました。

日本でオリーブと言えば小豆島と言われるまでになったのです。


オリーブが日本に伝来して、たかだかまだ150年と聞くと、オリーブの樹が当たり前のようにある現在においては、まだこれ位なの? 
と新鮮な気持ちになります。

オリーブが150年ということは、例えば、私が、JAMHAのハーバルセラピストの資格を取るときに養成講座で習った30種のメディカルハーブ、及び、12種の精油に使われるメディカルハーブも、西洋ハーブであることを考えると、それらが日本に伝来してきたのはそのあたりかもしれません。

西洋からハーブを持ち込んで、それを日本の風土に馴染ませるというのは数多くの人達の尽力があったからこそということも、当たり前なのかもしれませんが、よくわかりました。

西洋ハーブが日本に持ち込まれた時の話、その後の普及期の話というのは、このオリーブの話以外にも新鮮な話がたくさんありそうなので、今後調査をしていきたいと思います。

小豆島のオリーブについては、先日(2017年8月26日)にハーブ研究家のベニシア・スタンリー・スミスさんが主人公の、NHK「猫のしっぽ カエルの手」で取り上げられた時のことを記事にしているので、こちらもご覧ください。

NHK「猫のしっぽ カエルの手」の小豆島特集で、国内で初めてオリーブの有機栽培を成功させた山田典章さんが紹介されました

テーブルオリーブの日本と世界の関係・比較

オリーブは今から約8,000年前、古代フェニキア(地中海東岸に位置した歴史的地域名)を代表とする中近東地方が起源とされ、現在世界では年間約150万トンのテーブルオリーブが生産されています。

テーブルオリーブ用の果実には、約15%の油分が含まれており、その脂質組成で最も多く含まれるのがオレイン酸です。

またオリーブ果実の微量成分の中で最近注目を集めているのがポリフェノール類で、ポリフェノールには抗酸化作用があるとされています。

現在日本では、年間約2,400トンを輸入しており、輸入国の第一位はスペイン、次いでアメリカ合衆国、イタリアとなっています。

消費量はアメリカが年間一人当たり約597g、スペインは年間一人当たり約3,670g、日本は年間一人当たり約18gで、これは特大品種のオリーブの実のはぼ1粒程度です。

アメリカは日本の約30倍、スペインは約200倍の消費量で、現在日本の食のトレンド・食習慣からみて日本でも今後の成長が期待できる要因の一つです。

私がこのデータで驚いたのは、テーブルオリーブの日本への輸入の第1位がスペインであることと、スペインのテーブルオリーブ消費量が日本の300倍、且つ、日本の年間一人当たり消費量がたったのオリーブ一粒程度というところです。

テーブルオリーブといえば、圧倒的にイタリアという偏見を持っていました。

こういうデータを見ると確かに、日本における食用オリーブ、及び、オリーブオイルの市場のポテンシャルの高さを感じますので、昨今のブーム的な動きも理解ができるようになります。

そこで、スペインはテーブルオリーブの世界市場でどのくらいの位置付けにあるのか調べてみました。

ちょっと古いですが、スペイン貿易庁(ICEX)が2008年11月に出した統計を参考にします。(ネット上で詳細が確認できたのがこれだけでした)

以下にスペインの世界的なポジションがわかるデータのみを抜粋します。

★スペインは食用オリーブの世界第 1 位の生産国で、世界生産量の 29%、EU 生産量の 83%を占めている。

★スペインは、世界最大の生産・輸出国である。世界生産量の 40%を占め、世界で取引される食用オリーブの 50%以上がスペイン産である。

主要生産国 (トン)
スペイン …………………… 427,322
イタリア……………………… 12,392
ギリシャ……………………… 84,615
ポルトガル…………………….. 4,609
フランス……………………….. 1,269
EU 域外のその他生産国
トルコ
チュニジア
モロッコ
アルゼンチン

スペインのダントツ度合いに驚いてしまいました。

スペインについては、先日の記事「スペインの「ブリウエガ」の方が、プロヴァンスよりもラベンダー畑の単位が圧倒的に巨大なのでは?と思う件」で、ラベンダー畑の巨大さについて取り上げましたが、やはり当然、オリーブ畑も巨大です。

以下はヘリコプターでオリーブ畑の上空を作成したものですが、とんでもない大きさであることが分かります。

テーブルオリーブについては、先日、「テーブルオリーブ(食用オリーブ)を販売している会社が5年で約10倍伸びている理由とは」の記事の中で、厚木市のシェリーズのことを取り上げましたが、先日、カルディでシェリーズのテーブルオリーブを購入し、食べてみましたが、非常に美味しかったです。

シェリーズのItaly Fresh Olive. 日本人の口に絶対に合う味だと思います。カルディで絶賛発売中(2017年9月現在)
パッケージの裏側です。要冷蔵で、賞味期限は約2か月です。
パクチー焼酎と一緒に頂きました。とにかく美味い!

シェリーズについては、こちらを見て頂ければどういう会社がわかると思います。この会社は今後個人的にはさらに大きく伸びそうな予感がします。

冒頭で取り上げたオーエムジャパンは神奈川県相模原市、シェリーズは神奈川県厚木市で両方ともオリーブ加工に関わり、伊豆寄りというのは意味があるのだろうかと思いました。

なぜかというと、最近伊豆周辺はオリーブ栽培に力を入れ始めているので、生産と加工のコンビネーションを強化していくという意図があるのか、、わからないですが、、。

テーブルオリーブの市場、グローバルにもローカルにも目が離せないです。

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