約2週間前に、仕事で富山県へ行くことが決まり、「富山と言えば、薬だよなあ」と思ったので、富山の薬にまつわる歴史等を学べるスポットを事前にチェックしていました。
そうすると、「池田屋安兵衛商店(読み方:いけだややすべえしょうてん)」という和漢薬問屋が富山市内で有名なことがわかったので、今回はそこへ行くことにしました。
富山駅から路面電車で8分ほど移動すると、「西町」という停留所があるので、そこで降りて2分ほど歩くと、池田屋安兵衛商店が見えてきました。
池田屋安兵衛商店について、ホームページは以下に説明があります。
創業昭和11年、初代池田実が現在の地に和漢薬種問屋として暖簾を掲げました。
戦後まもなく江戸時代に一世を風靡した「反魂丹」の製造販売を始めました。現在も日本の伝統薬を中心に、和漢薬の世界を追及しています。
染め抜かれた角三の屋号は、「信用」「伝統」「研鑽」の三つを極めよ―という家訓を表すものです。
なるほど、お店に書かれた”天保元年創業”というのは、「反魂丹」が富山で製造開始した時期ということですね。
これらの棚を見ると、「よくぞここまで体調の細かな症状に合わせた商品を取り揃えているなあ」と思いました。
また、「和漢薬(わかんやく)」の世界観というのが、これらの写真を見てみるとイメージが伝わるのではないでしょうか。
和漢薬とは、和薬と漢薬の総称なのですが、「 和薬」とは、中国でいう草薬に当たるもので、日本の民間で開発された生薬。「 漢薬」とは、中薬のことで、中国で開発された生薬。 日本の生薬市場で一般に取引される和漢薬は、300種以上で、常用されるのは 100~200種だそうです。
ここからの展示が、私自身の興味であった「なぜ富山は薬で有名になったのか?」についての情報なので、注意深く見ていきたいと思います。
また、池田屋安兵衛商店のホームページの「反魂丹の歴史」の部分に、富山が県を代表する産業へを育っていった流れがわかりやすく説明されていますので一部抜粋します。
富山藩の二代目藩主・前田正甫公は、元来薬草の研究家と知られ、城内には立派な薬草園までありました。
そして備前の医師・万代(まんだい)常(じょう)閑(かん)から製法を伝授された反魂丹を、城下の薬種商・松井屋源右衛門に命じて製造を始めました。以来、藩の厳しい統制の下、原料の品質や効き目の確かさで確固たる地位を築き上げていったのです。
富山の薬売りは、置き薬(先用後利)という独特の販売方式を構築し、全国津々浦々、どんな辺ぴな場所までも薬を届けました。
明治政府による西洋医学の導入は、それまでの日本の伝統薬を否定し、多くが廃止に追い込まれました。
反魂丹も同様の運命にさらされ、代わって西洋薬の影響を受けた多種多様な薬の製造が始まります。そうして明治、大正、昭和の時代の中で、富山の売薬業は県を代表する産業へ育っていったのです。
私が生まれた北海道でも、薬売りが来て、足りなくなった薬を母親が補充していた記憶があります。この仕組みこそ、置き薬(先用後利)だったんですね。
あと、店内では、丸薬製造体験もできます。
薬草から薬を製造する上での様々な道具が展示されており、興味深かったので、以下にご紹介します。
最後に、「飴と薬の関係」が書かれたものがあったのですが、参考になりましたので以下に貼ります。
店内で得られた情報が、思った以上に大量ですので、【富山の和漢薬問屋『池田屋安兵衛商店』訪問レポート】は3部構成でお届けします。
次回は、【売られていたハーブ編】です。