初秋の北海道ハーブ巡り記【北見ハッカ記念館《人とハッカ(歴史)》編】

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昨日に引き続き、「初秋の北海道ハーブ巡り記」をお届けします。

【昨日の記事:初秋の北海道ハーブ巡り記【65年間たった一人で作り上げたフラワーガーデン「陽殖園」編】】(2020年9月17日)

滝上町から北見へ戻り、ホテルで一泊し、今回の北海道ハーブ巡りの最終日を迎えました。最終日の朝にまず、北見で最も行きたかった北見ハッカ記念館に向かいました。

北見駅前から数分のところにある『北見ハッカ記念館』。歴史的な重みを感じるお洒落な建築物です。
入口で手続きをして早速入館。
玄関のところに早速興味深い展示物。この違い(取卸油、はっか脳、はっか赤油、はっか白油)は別記事で説明します。
和種ハッカ「おおば」から採れた取卸油(精油)。

「おおば」は、先日の記事【初秋の北海道ハーブ巡り記【生の和種ハッカ事典 編】】に出てきます。

北見ハッカが最盛期を誇った時の輸入用の缶(ホクレン)。

ホクレンの「北見薄荷工場」の正門につけられていた名標。今のホクレンからはあまり想像のつかない時代です。
北見ハッカ衰退の要因の一つとなった合成ハッカ。
北見ハッカ記念館誕生の経緯。

それでは、テーマ別の部屋に入っていきたいと思います。

「人とハッカ」。世界におけるハッカ、日本におけるハッカ、北見におけるハッカの歴史が把握できる部屋です。

ハッカ香油を体に塗る古代ギリシャ人
香水風呂を楽しむ古代ローマの貴族(ハッカの香りは特に好まれ、利用されていた)
ミントティーでティータイムを楽しむイギリスの家族(17世紀中期)
北海道以外では、山形、茨城、広島、大分、熊本でハッカ作付面積が広かったことがわかります。
新約聖書やコーランにもハッカの記述がありました。
北見ハッカの盛衰。昭和13年~14年の作付面積「21,000ヘクタール」はすごい広さです!
日本におけるハッカの歴史は3つのフェーズ「知識としての時代」「薬用植物の時代」「農業作物の時代」に分けることができる。
江戸時代以降の大まかな流れ。1896年の「山形県産薄荷脳の初海外輸出」は大きなイベントと感じます。山形へ行ったら詳細を調査したいです。

ビジネスの視点から見ると「ハッカ」は「金の成る草」。昭和初期の北見のハッカ畑へ行ってみたかった!
明治末期から昭和初期にかけ、ハッカ栽培、及び、取引で実際に地元でハッカの買い入れをしていた証拠となる資料。
日本における和種ハッカ作付面積の変遷。大正時代、及び、昭和30年ごろの山が気になります。
移動効率の良さもハッカ産業を支えた一つの要因。
北見ハッカの衰退要因の一つ「合成ハッカ」の製造法。
戦後の急騰は、インフレが要因ですね
北見ハッカの衰退要因。「第2次世界大戦」が引き金になっていたのは初めて知りました。

ハッカと人との関りの歴史について学んだあと、次の部屋へ移動するこにしました。

明日へ続く。

「北見ハッカ記念館」の情報

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