今や、「ヴィーガン」という用語は世界中に幅広く普及しているように感じますが、「完全菜食主義者」と訳され、”肉・魚・卵・乳製品などの動物性食品を食べない人”のことを指す、という説明がされています。
表面的に、「ヴィーガン」がどういう人かを知っても、その人達が目指すものであったり、なぜそのような志向が生まれたのか?等の本質的な部分ついては理解をしていない状態であったため、以下のページからヴィーガンの基本を理解しました。
(以下に、「ヴィーガンとは」に該当する部分を一部抜粋)
なんとなく「最近の若者の流行」という印象のヴィーガンですが、この言葉自体が生まれた歴史は意外と古く、1944年にまでさかのぼります。
それまで世の中にはベジタリアンという言葉しか存在しませんでしたが、イギリスのレスター・ベジタリアン協会に所属していたドナルド・ワトソン(Donald Watson)氏が、「ベジタリアンの定義、気に食わない」と考え、ヴィーガンという新しい言葉を作りました。
現在もイギリスを拠点に活動を続けるヴィーガン協会(Vegan Society)が設立されたのも1944年で、ワトソン氏はこの協会の創設者の一人です。
ヴィーガンというワードの語源は諸説ありますが、この言葉の生みの親のワトソン氏は自身のインタビューで、「ベジタリアン(Vegetarian)の短縮系」と述べています。
「Veg-etari-an」の太字部分だけ取って、「Vegan」ということですね。
同氏はインタビューで、Veganと名付けた理由について「ベジタリアンから始まり、理にかなった結論にたどり着いたものだから」と発言しており、これがVegetarianの最初と最後の文字を使った背景です。
ワトソン氏らヴィーガン協会創設者たちが、なぜ肉を食べないベジタリアンに納得していなかったというと、ベジタリアンは乳と卵を口にしていたからでした。
創業者らは、動物の権利に真面目なとても深く考える(こじらせ思考な)方々だったようで、ものすごく噛み砕いて言うと、
「ベジタリアンが肉や魚を食べないのは賛同するけど、卵には鶏が、乳には牛を使うよね。直接食べなくても、その鶏も牛も酷い環境で生かされて結局殺されてさ。同じことじゃない?」
という疑問から、卵も乳も口にしない、すなわち鶏と乳牛を搾取しない食生活の概念を新たに作ったとのことです。
現在においてもビーガンの定義はその当時とほぼ変わっておらず、お肉やお魚だけでなく、卵や乳も口にしない食生活のことを指しています。
新しい造語のように感じていたのですが、誕生から80年近くの古い言葉だったことを知り驚きました。ソースの記事には、ヴィーガンの動機や、主に欧米諸国でヴィーガンが爆発的に増えているという内容が書かれており、非常に大きなムーブメントになっていることを感じ取れます。
今日は、その『ヴィーガン(ビーガン)料理』に造詣が深いシェフと、修行僧の『精進料理』を普及させる活動をしている住職との対談について取り上げたいのですが、大きく視野が広がる内容でした。
The Burn 米澤シェフ日本に息づくプラントベース。「精進料理を習いに」
ヴィーガン料理に造詣が深い、東京・青山のサステナブルグリル「The Burn」の米澤文雄シェフ。
動物性食材不使用という点でヴィーガン料理と共通項を持つ「精進料理」を学んでみたいと、東京・浅草にある緑泉寺の青江覚峰住職のもとを訪れた。 修行僧の食事である精進料理を「お寺ごはん」と称し、広く普及させようと活動する青江住職に習い、米澤シェフが感じ取った精進料理の「心」とは?
「食材を無駄にしない」「命を使い切る」
つい忘れがちな視点に気づかされた米澤文雄(以降、米澤): 本日はありがとうございました。実は精進料理を習ったのは今回が初めてでした。
青江覚峰(以降、青江): そうでしたか。私も一流のシェフに料理を教えるということで、正直少し緊張しました(笑)。
米澤 : そんなそんな(笑)。そういえば、青江さんは精進料理を「お寺ごはん」と表現して発信されていますよね。何か特別な理由があるのですか?
青江: 精進料理とは「修行僧が他の修行僧に食事を作ることで己の修行とするもの」という定義があります。そう言われると、一般の方は敷居が高いと思ってしまうでしょう? 私は精進料理は修行僧の専売特許ではなく、多くの人に気軽にとり入れてもらいたいと思っているので、「お寺ごはん」と名付けて発信しています。
米澤: なるほど、「お寺ごはん」だと間口が広い感じがしますね。僕自身、精進料理を習って、日ごろの食について顧みる良い機会になったと思います。
青江: 米澤さんは料理人なので、今日は料理を「作る側」が意識すべきことを中心にお伝えしましたが、いかがでしたか?
米澤: 一番感銘を受けたのが「食材を無駄にしない」という考え方です。レストランの料理人は「食材のおいしい部分を探して調理する」という思考で料理へアプローチしますが、精進料理では「食材をすべて食べる」ことが起点なんですね。命を無駄にせずしっかりといただく、忘れがちですが大事なことです。自分自身に置き換えると胸が痛むところもありました。
青江: 「食材を無駄にしない」というのは、精進料理においてもっとも大切な心得と言えます。仏道の世界では、あらゆるものにはそれぞれの役割があると考えます。よく料理本で「ナスのヘタは切って捨てる」「ピーマンの種は取り除く」と何気なく書かれますが、野菜の皮やヘタにも役割があります。食べるために工夫してみると、新しい発見があるかもしれません。
米澤: 僕は NYと東京のミシュランの星付きレストランで働いていましたが、料理においては見た目の美しさが重要でした。日本人なので「もったいない」という感覚を持ちながらも、食材は削って削って、切れ端はまかないで使うということが多かったです。
青江: 精進料理は鎌倉時代に中国から伝わりましたが、当時は日照りも干ばつも多く、紛争もあった。民は飢えていて、食に対して貪欲だったでしょう。精進料理の教えは「もったいない」文化として一般大衆にも広まっていったようです。
厳しい時代だからこそ見直す精進料理の心
青江: 食材を無駄にしないということは、むやみに捨てないこと以外にも、素材の長所を最大限引き出してあげることも重要です。精進料理の味付けのルールで「六味」というものがありまして、これは「甘い、苦い、酸っぱい、しょっぱい、辛い」の五味に、素材本来の味を生かすための薄味を意味する「淡味」をプラスしたものです。今回だと「とうもろこしのす り流し」が特に「淡味」を意識しています。一度オーブンでローストして、とうもろこしの甘味を引き出し、味付けは塩のみです。
米澤: 西洋の料理で「淡味」は何だろうと考えてみると、フランスだとコンソメスープ、イタリアだとズッパ辺りで、透明度の高いスープ系でしょうかね。西洋で淡い料理が少ないのは、日本に比べて豊富に調味料があることも一因として考えられます。今回の企画で、青江さんから学んだ教えを、自分の料理に落とし込んだレシピを考えるのですが、「淡味」もキーワードですね。そういえば、精進料理はニンニクやネギなど五葷が使えませんが、僕が普段から料理にとり入れているスパイスは使って良いのでしょうか?
青江: NGと言う方もいますけれど、私はスパイスはOK だと考えています。精進料理の基本は、身近な食材を生かして調理することです。仏教発祥の地であるインドはスパイスが豊富で、もちろん精進料理にも使われています。日本でも時代や宗派が変わればルールも変わってきます。米澤さんがレシピを考えられるときも、根底にある教えは捉えて、あとはフレキシブルに考えて良いと思います。
1000年前にもたらされた教え
コロナをきっかけに現代とリンク米澤: コロナ禍で食に関する諸問題が浮き彫りになり、世界中でサステナブル的思考が高まってきました。ただ日本にはもともと、究極のサステナブルである精進料理があったんですよね。今こそ実践すべき教えが詰まっていると思います。1000年前に日本へ持ち込まれた教えが、コロナをきっかけに、リンクしてきているんでしょうかね。
青江: 繋がったと思います。コロナに限らずこれからも厳しい時代は必ず訪れます。そういったときに新しい対処法を考えるばかりではなく、古い教えを見直すことも大切です。
米澤: この数ヶ月間、飲食業は苦しい状況が続いています。ふたを開けてみると、大打撃を受けているのって、人間のエゴが作り出した贅沢過多なもののような気がするんです。例えば効率良く稼げるけれど大量に食品ロスを生み出していたブッフェや、やみくもにインバウンドだけを狙っていたお店などは、非常に苦しいですよね。飲食ではないですが、イタリアでは観光客が減ったヴェネチアの運河がきれいになり、魚が戻ってきたそうですよ。大変な状況ですけれど、ある意味、今までの帳尻を合わせているようなところもあるのかなと思います。
青江: 昔の日本ではハレとケがあって、贅沢するのはハレの日だけでした。最近では毎日がハレのようになってしまっていましたからね。溢れ過ぎたものは消えていき、残るべきものは残るのかもしれませんね。
米澤: 飲食店を見ていると、規模は小さくても、地元のお客様と信頼関係を築き上げてきたお店はコロナ禍でも強い気がします。
青江: 小さな努力を続けてこられたお店は強いですよね。先ほど「飛龍頭」を作ったときに揚げ物をしましたが、揚げ物って必ずカスが出るでしょう? そのカスをこまめに取る作業をしていると、料理においても人生においても、小さな努力の積み重ねが大切だと気づかされるんですよ。
米澤: 揚げ物のカスを取ることが?
青江: はい。仏教の世界で「周利槃特(しゅりはんどく)」という釈迦の弟子がいまして、彼は勉強ができず、説法が全く覚えられなかったんです。周り から責められ、自分でも絶望して寺を出ようとすると、釈迦は彼に修行として「掃除」をするように言いました。チリやホコリはきれいにしてもすぐまた出てきますが、周利槃特は掃除を続けました。そして「人の煩悩も掃除と同じで、払ってもすぐ出てくる。払い続けることが大切なのだ」と悟ったのです。揚げ物のカスも、取っても取っても出てくる。でも一度怠けると、次に揚げるものの一部だけ色が変わったり、味が濁ったりするので、やはり ひたすら取り続けないといけません。
米澤: 小さな努力の積み重ねでしか実を結ばないこともある。料理は人生において大切なことを教えてくれますね。
text 笹木菜々子 photoきくち よしみ
本記事は雑誌料理王国2020年10・11月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は 2020年10・11月号 発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。
※料理王国の2020年10月30日の記事(https://cuisine-kingdom.com/the-burn/)より抜粋
食の本質について、改めて見つめ直していきたいという気にさせてくれる内容です。
「精進料理」という言うだけで、一般人にとっては距離を感じてしまっていたので、青江住職の活動は意義のある活動だと感じました。
”動物性食材不使用”という点におけるヴィーガンとの共通点は全く知らなかったので、今の世界のトレンドを見ると、日本の精進料理が世界的に注目される日も近いのではないかと思います。
今後のヴィーガン、及び、お寺ごはん(精進料理)のトレンドについては注目していきたいです。