ここ最近、自分が生まれた北海道という土地が、”こんなにもハーブとゆかりのある土地だったとは!”と感じる気持ちが以前よりも強まっています。
北海道で「ハーブ」と言えば、”富良野のラベンダー”を多くの人が最初に思い浮かべるかもしれません。私自身も、ハーブのことを全く知らなかった今から15年ほど前に、ファーム富田へ行ってラベンダー畑を楽しんでいました。それほど高い認知度があります。
【過去の関連記事:【保存版】ファーム富田だけでなない、富良野(かみふ・なかふ・ふらの・なんぷ)のラベンダー畑16のスポット】(2017年7月22日)
その後、長い月日を経てハーブの魅力に気づいてからは、「アイヌ民族とハーブの関わり」の視点が拓けてきて、北海道の魅力に改めて気づきました。
【過去の関連記事:北海道大学植物園訪問レポート【北方民族(アイヌ・ニブフ・ウィルタ)が愛用した植物編】】(2019年7月28日)
さらに、それから、ハッカ(薄荷)産業における北海道・北見の歴史に触れると、かつて「世界一のハッカ産業の地」だったことがわかり、「北海道のこと、もっと知らないと駄目じゃん!」と自分に叫んでしまいました。
今日は、その「ハッカ産業に関する日本における年表」を紹介したいのですが、ハッカのことを探求していく中できっと大きな価値を持ってくる内容だと感じました。(以下)
江戸時代初期 薄荷(ハッカ)草が中国から移入。(僧侶が山城(京都)に持ち込んだという説と中国人が諫早(長崎)に持ち込んだ説とがある)
文化14年 岡山県で薄荷(ハッカ)栽培が始まる。
安政元年 広島県で薄荷(ハッカ)栽培開始。山形県でも栽培がはじまり、その後最盛となる。
明治17年 北海道で初めて日高門別で薄荷(ハッカ)の栽培が行われるが消滅。
明治18年 八雲の徳川農場で薄荷(ハッカ)栽培が行われたが数年後に消滅。
明治24年 永山(旭川)の石山伝右衛門が山形県から薄荷(ハッカ)を移入、栽培。
明治29年 湧別の渡邊精司が永山から種根を取り寄せ栽培。
明治30年 北見の夜明け(北光社移民団・屯田兵入植)
明治31年 全道の統計に薄荷(ハッカ)作付6反歩(60アール)と初めて記録される。
明治32年 北光社で薄荷(ハッカ)2畝(2アール)を栽培。遠軽の小山田利七が山形から天水釜を持ち帰り蒸留。
明治34年 北見地方で薄荷(ハッカ)栽培が屯田兵を中心に急速に普及。
明治36年 薄荷(ハッカ)栽培の盛況により種根成金が出現。
明治37年 薄荷(ハッカ)が主要作物としての地位を確立。
明治40年 本州大手薄荷(ハッカ)商人が、買い付けの出張所を開設。
明治44年 鉄道開通。人口増、好景気で野付牛(北見)は薄荷(ハッカ)ブームに。協定商人以外の商人の集荷参入で薄荷(ハッカ)高騰。
明治45年 薄荷(ハッカ)農家とサミュエル商会との間で一手委託契約。これを探知した協定商人が高値買いに出て価格高騰。サミュエル事件起こる。
大正2年 天水釜(明治末まで)が、蛇管式になる。その後、大正中期まで使用される。
大正3年 記録的な安値の出現。(大手商人による安値協定)
大正4年 サミュエル裁判。(大正12年まで続く)
大正8年 豆類の作付急増。薄荷(ハッカ)は減少するが思惑買いで価格暴騰。薄荷景気により北見、周辺市街地に活気をもたらす。
箱蒸留型蒸留機が登場。昭和初期まで使用される。
大正12年 関東大震災で横浜の貯蔵薄荷(ハッカ)300トン焼失。
大正13年 大震災の品不足で薄荷(ハッカ)が高騰、薄荷成金を生む。和種薄荷(ハッカ)「あかまる」を優良品種に指定(農業試験場)
大正15年 薄荷(ハッカ)の作付面積急増。産業組合運動起こる。
昭和2年 道営薄荷(ハッカ)取卸油検査開始
昭和5年 田中式薄荷(ハッカ)蒸留機特許取得。
昭和6年 ホクレン野付牛支所設置。薄荷(ハッカ)の取り扱いを開始
昭和7年 ホクレン総会で薄荷(ハッカ)工場の設置を可決。
和種薄荷(ハッカ)「きたみしろけ」を優良品種に指定。
昭和8年 薄荷(ハッカ)工場の建設工事に着手(9月)、竣工(11月)。
昭和9年 薄荷(ハッカ)工場落成式(8月)。新工場から薄荷脳10箱アメリカへ初輸出(10月)。
昭和10年 北工式蒸留機(1号)が誕生。昭和17年頃まで使われる。
昭和11年 薄荷(ハッカ)工場へ勅使御差遣される。
昭和12年 北海道北見地方の取卸油生産量史上最高を記録(800トン)。
昭和13年 和種薄荷(ハッカ)「ほくしん」を優良品種に指定。
昭和14年 北見工場から薄荷脳、薄荷油合計525トンを輸出。北見薄荷が世界市場の7割を占める。管内の作付面積2万ヘクタールを記録、薄荷栽培史上最高となる。
昭和15年 日本輸出農産物株式会社設立。日独伊調印により米英市場への輸出激減。ブラジル薄荷(ハッカ)の台頭
昭和16年 太平洋戦争始まる(輸出ストップ)。農地統制法制定(薄荷減反)。
中国産薄荷(ハッカ)の台頭。
昭和18年 薄荷(ハッカ)加工縮小整備(北見工場と神戸の工場だけ)。
昭和19年 軍用松葉油緊急増産(薄荷(ハッカ)蒸留機の転用)。
昭和20年 太平洋戦争が終わる。(神戸工場は空爆を受け、北見工場のみが残る)
昭和22年 薄荷(ハッカ)の価格統制解除。北見薄荷耕作組合結成。
アメリカへ戦後初の輸出(再開)、薄荷脳134箱を出荷。
昭和24年 北見地方薄荷耕作組合連合会設立。
昭和25年 優良種苗普及のため、事業施設を設置。
昭和26年 薄荷蒸留施設復旧整備3ヵ年計画推進。
昭和27年 薄荷検査、国営となる。北見市薄荷耕作組合主催の復興祭が開かれる。
昭和28年 和種薄荷(ハッカ)「まんよう」を優良品種に指定。
昭和29年 昭和天皇陛下御行、薄荷(ハッカ)工場ご視察。和種薄荷(ハッカ)「すずかぜ」を優良品種に指定。
昭和31年 洋種薄荷(ハッカ)の委託販売は昭和35年までがピーク。
昭和32年 薄荷(ハッカ)輸出振興期成会設置。作付面積戦後最高1万ヘクタールを記録、薄荷脳・薄荷油合計280トンを生産。田中式蒸留機56、57型完成。
昭和33年 皇太子殿下(現天皇陛下)工場ご視察。
昭和34年 北見地方農協連主催「はっかまつり」開催。
昭和36年 和種薄荷(ハッカ)「おおば」を優良品種に指定。北工式蒸留2号機、鉄製蒸留胴の観音(片)開きも使用。
昭和37年 大幅減反により取卸油を緊急輸入。
昭和38年 薄荷(ハッカ)が非自由化品目に指定される。
昭和40年 和種薄荷(ハッカ)「こうよう」を優良品種に指定。
昭和41年 輸出不振。合成品により天然品市場が圧迫される。
昭和42年 大型集中蒸留施設の設置(3ヵ年計画)。国内相場の低迷(ポンド切り下げ)。
昭和43年 和種薄荷(ハッカ)「あやなみ」を優良品種に指定。
昭和44年 合成薄荷(ハッカ)脳が天然薄荷(ハッカ)を圧倒。洋種薄荷(ハッカ)(仁頃)の契約栽培。(昭和50年代半ばまで)
昭和46年 薄荷(ハッカ)輸入自由化(暫定関税措置)実施。
昭和47年 チモールを原料とする合成薄荷脳発表。
昭和48年 和種薄荷(ハッカ)「わせなみ」を優良品種に指定。関税延長決定。
昭和49年 石油ショックにより薄荷(ハッカ)脳の価格高騰
昭和50年 和種薄荷(ハッカ)「さやかぜ」を優良品種に指定。道産薄荷(ハッカ)が市場から姿を消す。
昭和57年 和種薄荷(ハッカ)「ほくと」を優良品種に指定。
昭和58年 ホクレン北見薄荷工場閉場式。中国産薄荷(ハッカ)取卸油の輸入増。
昭和61年 旧ホクレン北見薄荷(ハッカ)工場の事務所を改修、「北見ハッカ記念館」としてオープン。
平成6年 薄荷(ハッカ)の主産地仁頃の民家を「はっか御殿」として保存。
平成9年 常呂川河川敷に市民参加の「香(かお)りゃんせ公園」が開園。年々盛況となる。
平成13年 「仁頃はっか公園」(名水公園を改称)が開園。中国に変わりインド産薄荷(ハッカ)が増大。
平成14年 「薄荷蒸留館」が開館。(期間中、毎日蒸留実演。)
平成16年 蒸留体験ができる「ハッカ蒸留小屋(田園空間整備事業)」が開館。
平成18年 第15回全国ハーブサミット北見大会開催。
平成20年 北見薄荷(ハッカ)が近代化産業遺産として認証される。※ハッカ油専門店『ペパーミント商会』の北海道北見薄荷の年表(https://kitamihakka.com/blog/blog-798/)より抜粋
上記の年表を見ると、日本国内のおいて薄荷が最初に栽培されたのは【岡山県】となっています。過去に取り上げた以下の記事と一致する内容です。
【過去の参考記事:「幻の日本薄荷(はっか)」を復活させ、宿場町として栄えた街に新たな観光資源を提供する岡山県の「矢掛ハッカ普及会」。北海道のハッカのルーツは岡山県にある?】(2019年9月30日)
また、年表に出てくるハッカ産業の歴史に残る『サミュエル事件』の詳細は以下に記載されています。
世界で最もメンソールを含む植物である「ハッカ」を巡る戦いの歴史は、西洋人が、東洋のスパイスの産地を探し出すために航路を開拓した「大航海時代」の戦いの熾烈さを彷彿させます。
北海道の北見市には、今年中に行っておきたい気持ちが強いので、今からスケジュール調整を図りたいと思います。
【過去の関連記事:『北見ハッカ通商』のホームページがパワーアップし、”ハッカ”の種類・歴史等の情報がさらに充実していました。】(2020年5月4日)
【過去の関連記事:25年ほど「ハッカ油」を独学で実践と研究をしている女性のハッカ油の活用方法は真似したくなります。】(2020年4月26日)