昨日、大阪の食道園という焼肉屋さんが提供しているキムチを食べたのですが、そのキムチの味が、今までの人生の中で一番美味しいというくらいの激ウマレベルでした。
そのため、大阪の食道園のことについて調べたところ、日本における戦後の「朝鮮式焼肉」のまさに走りのお店であることがわかりました。その時に、キムチの味のコクの深さの理由がカラダで理解できました。
※以下に食道園の歴史が書かれたページを貼ります。
そして、日本におけるキムチの歴史について調べていると、どうやら、佐々木道雄さんという方がその分野において非常に詳しいことがわかってきました。
※この本を読むことで、朝鮮半島におけるキムチ、日本におけるキムチの歴史をかなり詳細まで把握できそうだったので昨日Amazonで注文しました。
その佐々木道雄さんが、日本におけるキムチの歴史について記述しているページがネット上に存在(記事が書かれたのは2004~2005年)しており、日本にどのようにキムチが普及してきたかの詳細が把握できる内容となっていました。個人的に非常に興味深い内容だったので、今日から時期別に3部構成で取り上げたいと思います。
日 本 の キ ム チ(2)
1945年から1960年までのキムチ佐 々 木 道 雄
前号は、戦前の日本では、漬物の本のほぼ半数に、様々なキムチの作り方が収録されており、キムチが朝鮮料理を代表する料理として、日本でも比較的によく知られていたことを紹介した。そして、日本の気候や日本人の嗜好に適合するような作り方が、早くから工夫されてきた。このような戦前の状況を肌で知る足立巌(1909年生まれ)は、次のように述べる。
「(キムチが)日本人に広く知られるようになったのは日韓合邦の1910年以降のことである。しかし当時はニンニクの臭気のために敬遠され気味であった。それが一転して長所の一つとされるようになったのは、第二次大戦以降のことである」(『日本食物文化の起源』自由国民社、1981年)
このように妥当な見解を述べる人もいるにはいたが、近年ではこうした見解は、いつの間にか片隅に追いやられ、キムチは戦後から知られるようになったとする誤った解釈が、大手を振ってまかり通るようになってしまった。
今号は、戦前のキムチ作りが戦後に及ぼした影響を知る意味で、敗戦直後の1945年から1960年までの日本のキムチについて考えてみよう。
(1) キムチはどのように捉えられていたか
1952年1月発行の婦人雑誌『主婦の友』の付録『経済でおいしいお惣菜料理』に、7種類の朝鮮漬が紹介されているが、その冒頭に、「朝鮮の名物といえば、どなたも漬物とおっしゃるくらい、朝鮮漬の味は格別のものがあります」とある。1952年といえば、東京新宿西口の明月館や、大阪の食道園や鶴一が開業して間もない頃で、朝鮮式焼肉はまだ、ほとんどの日本人に認知されていなかった時代である。
同様の文は、1956年刊の『世界文化地理大系 7 中国・朝鮮』(平凡社)にも見られ、キムチ漬け風景の写真の説明に、「朝鮮料理といえば、すぐ思い出すのはキムチと呼ばれる漬物であろう」とある。同年刊の本山荻舟の『飲食日本史』にも、次のように記されている。
「朝鮮の代表的といわれる〝沈菜(キムチ)〟が、白菜と大根を主材とする外、香辛料としてトウガラシ・ネギ・ニンニク・ショウガ・セリなどを加え、副材料として松の実・クリ・クルミ・ギンナン・ナシ等を配し、更に副材料としてチョンガクと呼ぶ海藻の一種、石首魚(いしもち)・アミ・塩漬けの貝類を併せて、上等の漬物ほどこの使用量を多くすることによって、特殊の風味を誇っていることは、わが国人にも知られている」
これらの知識のほとんどは、戦前からのものであり、戦中に一旦途絶えた後に、戦後になって復活したものと考えられる。
(2) キムチの普及程度
では、普及はどの程度であったのだろう。少し時代は下るが、1964年刊の『鶏林』(木澤政直、日研出版)を見てみよう。
「〝キムチ〟の味を知らない人は、辛いとか臭いとかいうけれど、〝キムチ〟はたしかにおいしい。寒いところでなければ、〝キムチ〟のほんとうの味が出ないというから、その点と、唐辛しや、にんにくの加減をくふうすれば、こちら(日本のこと…引用者注)でも案外、歓迎されるのではないだろうか」
このように、あまり普及していなかったように思われる。だが、まったく普及していなかったわけではない。まずは、私の体験を一つ記しておこう。
中学生頃に、母が「これ朝鮮漬っていうんだよ」と言って漬物を出してくれた(故郷は岩手県盛岡市)。初めて聞く名であったこともあり、「なぜ朝鮮漬というんだろう」という思いが頭の片隅に沁み込んだ。味は覚えていないが、同じ頃に食べた〝ニシン漬け〟(大根と身欠きニシンの漬物)の美味さは今でも忘れられない。家では漬物を2~3種類漬けていたが、朝鮮漬やニシン漬けは外で買ったものと思われる。
これは40年以上も前の、1960年頃の思い出である。
あのときの朝鮮漬は、一体なんだったのだろうと気になっていた。いつか調べなくてはと思っていたそんな折、5~6年前の古本市で、戦前の漬物の本に朝鮮漬の作り方が事細かに載っているのを見つけた。その瞬間「あっ、これだ」と直感した。私の記憶は間違いではなかったのだ。
同じ頃に朝鮮漬を食べた人がいるのを、最近になって知った。『NHK趣味悠々 キムチへの旅~作って・食べて・知る~』(朝倉敏夫ほか、2003年)によると、「昭和30年代後半、つまり1960年代初めには、白菜をベースにとうがらし、にんにくなどを混ぜた〝朝鮮漬〟が、インスタントラーメンと同じ30円だった、と私の友人、熊本県出身の森枝卓士さんは言っています」とある。
1960年代初めであれば、森枝がやっと小学校に入学した頃の記憶である。疑わしくは思ったが、小菅桂子の『近代日本食文化年表』(雄山閣、1997年)によると、インスタントラーメンの発売は、1958年の〝日清チキンラーメン〟が最初で一袋35円であった、とある。ここから、森枝の記憶も捨てたものではないことが確認できる。
このように、日本の北に位置する盛岡と、南にある熊本の二つの地で朝鮮漬が売られ、一般の家庭で他の漬物と同様に食されていたのである。つまり、頻繁に食されるものではなかったとはいえ、全国の各地で売られ、食べられていたと考えられる。
これを裏づける資料もある。1960年2月刊の『世界の家庭料理 ③ 中国料理 Ⅱ 』(中央公論社)は、中国料理だけでなく、朝鮮料理、インド料理、タイ料理、そしてベトナム料理が収録されているが、朝鮮料理の〝漬けもの〟の項には、次のように記されている。
「漬けものは気候、風土によって熟成するものですから、日本ではずいぶん異なったものにもなりますし、また材料も異なります。(中略) また、気温が高いので、すぐ酸っぱくなりますから、塩を少し余分に用いて作り、また一度に多くは作れません。ほんとうに長い間に熟成された、よい味にはなりませんが、近ごろデパートで朝鮮漬けの売れ行きがよいところをみますと、日本人にも好まれる味だと思われます」
デパートで売られているということは、街の市場での販売実績が評価されたことが前提となるであろう。つまり、遅くとも1950年代の後半には、町の漬物屋で取り扱われていたのは確実であり、ひょっとすれば戦前にまでその歴史が遡るかもしれない。戦前・戦後を通しての知名度の高さから類推すると、そのように考えるのが最も妥当であろう。
(3) 漬物の本のキムチの停滞
前号に引き続き、1945年から1960年までに発行された漬物の本から、キムチの漬け方について記してあるものを表に示してみた。ところが、1945年から1950年代前半までのものは数が少ないことに気がつく。これは、漬物の本の出版が少ないということよりは、キムチを採り上げる本が減少したためであった。この時代には、漬物の本のボリュームが100ページ前後と少なくなり、戦前と比べて極端にキムチの記述が減少する。表の1950年発行の『おいしい漬物のつけかた』が、1940年の同名の本の改定・再刊であることからすると、1950年代前半までに、キムチについて記された漬物の本の新刊本は、ほとんどないことになる。ただし、まったく無視されていたわけではなく、一般料理の本では、先に紹介した『主婦の友』正月号の付録『経済でおいしいお惣菜料理』(1952年)に7種類の朝鮮漬が紹介されている。
この間は、敗戦によって朝鮮が植民地から離れ、1948年には大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立し、1950~1953年には朝鮮戦争によって、朝鮮半島はローラーで踏みつけられるように戦線が何度も往来した。こうしたことがどのように影響したのかはわからないが、キムチの記述にとっては一時的な停滞期といえるだろう。
だが朝鮮戦争も終わり、1950年代後半になると、キムチをとりあげる漬物の本も増え始める。
(4) どんなキムチが作られていたか
① 在地系キムチ
表の、1958年刊の『やさしいつけもの12ヵ月』のキムチを見ると、〝朝鮮浅漬(沈菜漬)〟は戦前の『諸家 漬物の粋』(1938年)と同じで、〝即席のキムチー〟は1940年刊の『おいしい漬物のつけかた』と同じである。
戦前から引き継がれたこれらキムチの、具体的な作り方を次に示そう。
朝鮮浅漬(沈菜漬)
主材 : 白菜、大根
香辛料等 : ネギ(ニンニクの代用)、ショウガ、唐辛子、ニラなど <それぞれ千切りやみじん切りなどにする>
粗漬け : 白菜は1寸くらいに切り、大根は輪切りにしてから短冊形に刻み、一昼夜、塩で粗漬けする。
本漬け : 粗漬けした主材の水を切り、容器に並べ、あらかじめ混ぜておいた香辛料等をまき、これを繰り返し、その上から粗漬けの汁液を注ぎ、内蓋をはめて軽い重石をのせる。<温暖な日本では重石をのせないと味が変わることがある>
食べ方 : 水で洗わず固くしぼり、そのまま食べるか、醤油をかけて食べる。
このキムチは、ニンニクや塩辛を加えず、重石をのせて漬け、固くしぼって醤油をかけるという特徴を持つ。日本の漬物の特性を兼ね備えていることがわかる。
※表、戦後早期(1945-60)の料理書(漬物の本)の中のキムチ
即席のキムチー
主材 : 白菜
調味料等 : ネギ、ショウガ、人参、大根、塩魚など<塩魚は刺身状に切り、その他は刻んでから、塩もみをする>、粉唐辛子
粗漬け : 白菜は丸ごとか二つ割にし、葉の間に塩をふりかけ、甘塩で一両日おく。
薬味の準備 : 刻んで塩もみした調味料等に唐辛子をふりかけ、醤油を少々入れた昆布の煮出し汁で混ぜて、しぼっておく。
本漬け : 粗漬けした白菜の水を切り、葉と葉の間に薬味を詰め入れる。こうして桶に全部詰め込んだら、煮出し汁を上から注ぎ、軽く重石をする。
食べ方 : 洗わずに切って食膳にのせる。
このキムチも、ニンニクと塩辛を加えず、重石で押さえて漬けている。また、昆布の煮出し汁を入れ、日本的な味覚(うま味)に適うものとなっている。
日本の〝塩漬け〟は、塩をふって重石をのせると、野菜の水がしみ出て上まで水が上がるが、同類の漬物である朝鮮のキムチは、塩を振る量が日本の〝塩漬け〟より少ないため、甕に野菜を詰め込んでから、「塩水など」を注いで沈め、重石をのせないことが多い。「塩水など」には、塩水のほかに、塩魚のつけ汁(塩魚に水を注いでしばらく置いて作る)や塩辛汁、あるいは水や牛肉類のスープが使われる。
この方法が日本的に変化し、先の〝即席のキムチー〟では昆布の煮出し汁が使われている。同様に、同年刊の『食卓の料理 汁と漬けもの』(鈴木九二)の〝白菜の即席朝鮮漬〟では、だし昆布と煮干の煮出し汁が、〝朝鮮漬〟では出し昆布と醤油の煮出し汁が使われる。
こうした工夫は早くから見られ、1928年刊『飯と漬物嘗物三百種』(宮田孝次郎)の〝朝鮮風の白菜塩漬〟では、煮干(にぼし)と糠蝦(かすえび)、昆布等を煮て作った汁が使われている。
また、「塩水など」を加えずに重石をのせる方法を取るものや、副材料として醤油や昆布を入れる方法が開発されたが、それらについては前号で紹介した。
これらの在地系キムチは和風化傾向が強く、〝日本の漬物の一変種〟といってもいいほどのもので、今日の和風キムチのもとになった漬物群である。だが、この系統(土着系)のキムチも、1950年代の後半頃から、ニンニクが加えられるように変わり、その後も変化を積み重ねるが、それについては次号に譲る。
② 在日系のキムチ
一方、ニンニクや塩辛を加え、漬け方も朝鮮半島の技法に近いグループもある。戦前では、1937年の『実験 漬物の加工法』や、1937年の『四季 漬物読本』などがあり、戦後では、1957年の『新しい味覚の 漬けもの300種』がそれにあたる。例を一つだけ紹介しよう。
トンキムチ(白菜の朝鮮漬)
主材 : 白菜
薬味 : ネギ、大根、ショウガ<以上は千切りにする>、塩辛、白胡麻、唐辛子粉、ニンニク<たたき潰す>、切り昆布<適当の長さに切る>、味の素、砂糖
下漬け : 白菜は丸ごとか二つ割にし、葉の間に塩をふりかけ、軽い重石をおいて1日半ほどおく。
薬味の準備 : 薬味を全部入れ、混ぜあわせる。
本漬け : 下漬けした白菜の葉と葉の間に薬味を少しずつなすり込む。瓶の中にきっちりと詰め込み、上を屑葉やセロファンで覆い、空気にふれないようにする。
食べ方 : 一週間ぐらいたつと、発酵しおいしくなる。瓶の中で軽く水気をしぼり、洗わずにそのまま切っていただく。
このキムチは、薬味に白胡麻や切昆布を入れ、瓶に詰め込んでから塩水を加えない点で、戦前のものよりも和風化が進んでいるが、比較的に朝鮮半島の技法がそのまま残されている。
これらは、在日系の著者によるものと思われるケースが多いことから、在日系キムチと呼ぶことにする。
③ 朝鮮半島系キムチ
キムチは漬物の本以外にも、一般料理書や朝鮮料理を専門に取り扱った本(朝鮮料理書)にも記述されている。そのうち、一般料理書は漬物の本の一部が取り込まれると考えられるので省略し、ここでは朝鮮料理書のキムチについて少し触れておこう。
戦前の朝鮮料理書は数が極めて限られ、日本で最初のものが、前号紹介した『日本支那朝鮮西洋 料理独案内』(1887年)である。それ以降は、植民地時代の朝鮮半島で出版されたものに限られ、日本語で書かれたものに『朝鮮料理』(伊原圭、1940年)や『朝鮮食物概論』(金浩植、1945年)などがある。そしてこれらには、朝鮮半島のキムチが記されている。
戦後では、1962年刊の『韓国料理』(趙重玉)が、最初の朝鮮料理書であろう。ところが今春の古本市で『世界の家庭料理 ③ 中国料理 Ⅱ 』(1960年2月刊、中央公論社)を見つけ、めくって見て驚いた。なんとこの本には、朝鮮料理の章が45ページもあり、餅菓類を含め73種もの料理が紹介されているのである。まさに、戦後初の朝鮮料理の紹介書といっていいだろう。著者は〝上田フサ〟となっているが、生活経験を伴った朝鮮料理についての深い知識がにじみ出ており、とても日本人とは思えない。おそらく朝鮮半島出身の人だろう。キムチの作り方は、朝鮮半島の製法がほぼ踏襲されている。
これ以降も、韓国から来た著者による韓国料理書が随時発行されるので、この系統のキムチを朝鮮半島系キムチと呼ぶことにする。だだし、時代が下ると、日本的な変化が見られ、②の在日糸との違いは明瞭でなくなる。
(5) 1945年から1960年までの日本のキムチ
戦後すぐの一時期は、キムチが漬物の本に掲載されにくい時期もあったが、1950年代後半からは比較的頻繁に取り上げられるようになる。これらのキムチは、基本的には戦前のキムチの復活であり、大きくは、①和風化傾向の強い在地系キムチ、②朝鮮半島のキムチを土台に、一部が日本風にアレンジされた在日系キムチ、③朝鮮料理書に記述されることが多い朝鮮半島系キムチ、の3系統に分けられる。
キムチの販売は、早くから行われていたが、漬物屋やデパートなどでは①のタイプが売られ、私が40数年前に食べたキムチもこれだったと思われる。それは、この時代の後に漬物屋で売られていたキムチが①タイプであったことからも容易に想像がつく。このキムチは、色もあまり赤くなくてニンニク臭がない(少ない)もので、日本の漬物の一変形として捉えることができるだろう。
一方、在日の人々が多く集まる地域では、①のキムチは受け入れがたく、②や③のキムチが作られたり売られたりした。
つまり、①は全国的な広がりを持ち、日本の漬物の一変種として、一般家庭のご飯時の漬物やお茶うけとして食されたのであり、②と③は在日の家庭や朝鮮料理店で食べられたのである。
日本のキムチの定着は焼肉店から始まったとする説(鄭大聲『よくわかる 焼肉・韓国料理の歴史』旭屋出版、2003年)もあるが実際はそうではなく、以上に述べたように、一般家庭の香の物や惣菜として広まったと考えられるのである。
次号は、変化する1961年から1980年のキムチについて紹介したい。 (続く)
※『むくげ通信』の2004年7月25日の記事(https://www.ksyc.jp/mukuge/tuusinn.html)より抜粋
この抜粋記事のタイトルが、日本のキムチ(2)となっていますが、日本のキムチ(1)(戦前のキムチについての記述)がすでにアクセスできなくなっていました為、戦後(1945年~1960年)の日本におけるキムチの歴史から取り上げることにしました。
戦前の記述については、以下の佐々木道雄さんの著書で確認できるはずなので、今から楽しみです。
1945年~1960年に日本で普及したキムチというのは、基本的に”戦前のキムチの復活”であったという記述からも、戦前において日本にキムチが普及していたことがわかります。
また、日本に普及したキムチの系統として、
①和風化傾向の強い在地系キムチ
②朝鮮半島のキムチを土台に、一部が日本風にアレンジされた在日系キムチ
③朝鮮料理書に記述されることが多い朝鮮半島系キムチ
上記3系統が存在したという部分は、今も継続しているように思いますが、今後スーパーでキムチを眺める際の軸の一つにしようと思います。
次回は、1961年から1980年の間の日本のキムチについて取り上げます。