日本におけるキムチの普及史(1961年-1980年編)

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昨日は、1945年-1960年の期間の「日本におけるキムチの普及史」について取り上げました。

日本におけるキムチの普及史(1945年-1960年編)

今まで自分の中で、日本においてキムチがどのように普及してきたのかについてのイメージが全くなかったので、とても参考になりました。

戦後間もないころは、”戦前のキムチの復活”という意味合いが強く、在地系キムチ(和風傾向強い)、在日系キムチ(朝鮮半島のキムチを土台に日本風にアレンジ)、朝鮮半島系キムチ(朝鮮料理書に記述されることが多いキムチ)の3系統のキムチに分かれていったことを知りました。

今日は、1961年-1980年の日本におけるキムチの普及史について取り上げます。

日 本 の キ ム チ(3)

1961年から1980年までのキムチ

佐々木道雄

 戦後の早期(1945~60年)の一時期には、キムチが漬物の本に掲載されにくい時期もあったが、1950年代後半からは次第に取上げられるようになる。一方、漬物屋やデパートでもキムチが販売されたが、初期にはニンニクや塩辛を入れずに作られていた。また、在日や朝鮮料理店では、朝鮮半島南部の製法に基づきつつも、若干日本的にアレンジされたキムチを作っていた。その一方で、朝鮮半島のキムチの製法がそのまま紹介されることもあり、こうしたキムチも作られていたと考えられる。

 これらはいずれも戦前の伝統を引き継ぐものであって、戦中に途絶えがちであったものが、戦後に復活蘇生したものであった。これらのキムチは、その後どのように変転していったのだろう。今回は、キムチが次第に日本社会に浸透していったと考えられる1961年から1980年までのキムチについて考えてみたい。

(1) 漬物の本と朝鮮料理書のキムチ

 ここで、漬物の本の特性について少し述べておこう。

戦前の漬物の本では、日本の気候や日本人の嗜好に合ったキムチの作り方が記されることが多かったが、朝鮮半島が日本国の領域内であった関係から、朝鮮半島の製法をそのまま紹介したものも少なくなかった。

 戦後になると、日本の領域外となった朝鮮の漬物の製法をそのまま記す傾向は大きく減少し、基本的には日本の気候や嗜好に合ったキムチの製法が記されるようになった。そしてその筆者は、日本の漬物の専門家である場合がほとんどで、したがって、日本風にアレンジされた在地系キムチが主に紹介された。

 一方、1960年代から韓国・朝鮮料理書(以降、朝鮮料理書という)が登場し始めるが、これらはほとんどすべてが、在日か韓国出身者の手によるものであった。そのため、これらの本では朝鮮半島の製法が色濃い在日系キムチや朝鮮半島系キムチが紹介された。

漬物の本は一般家庭に広く読まれたので、日本的にアレンジされた在地系キムチが一般家庭に広がったが、朝鮮料理書は、在日主体のごく限られた人々しか手にすることはなかったので、これらのキムチの広がりはごく限られた範囲に留まったとみられる。

こうした状況を踏まえた上で、次ページの表(1961年から80年までの料理書<漬物の本>の中のキムチ)を見てほしい。なお、取上げた本は無作為に集めた漬物の本から、キムチについての記述のあるものを、10年間ごとに4~5冊になるように選んだ。

表 1961年から80年までの料理書(漬物の本) の中のキムチ

(2) 家庭で作るキムチ

① 漬物の本のキムチ

 戦後早期(1945~60年)のキムチは、戦前のキムチの復活の意味合いが強かったが、1961年以降では、戦前のキムチの各種製法(在地系、在日系、朝鮮半島系)を引き継ぎながら、互いの製法を混交したり、新たな工夫を加えながら、日本のキムチとして発展していった。

 表で言えば、1966年刊の萩原マリエ『漬けもの12ヶ月』では、最初のものは在地系であるが、次の5つと残りの2つはそれぞれ朝鮮半島系と在日系のキムチを土台にしているが、後の本では、これらが混交しながら独自的に変化(和風化)していく。

こうした過程を経て、在地系のキムチは、日本の漬物の一変種であるキムチ風の漬物から、和風のキムチへと変化していった。

 ところで、在地系キムチは1950年代後半ごろからニンニクが加えられるようになるが、これに引き続き、1960年代からは塩辛を加えるものが出てくる。そして、次に示すような独自的な特徴が付加される。

  1. 一夜漬けなどの早漬けが増加する。これは日本の温暖な気候に対応するためであろう。
  2. 漬ける材料では、戦前にはなかったナス、春菊、小松菜、子カブなどが使われるようになる。さらに、ピーマンやモヤシなども用いられるようになるが、これらは朝鮮半島では使われない材料だと思われる
  3. 副材料では、リンゴやゴマのように朝鮮半島ではほとんど使われないものも頻繁に用いられるようになる戦前からの伝統である昆布や煮干などの使用は相変わらずである。
  4. 70年代からは酢を加えるものが現れる(酸味を出すため。素材にリンゴを加えるのも同様の意味)。これは、発酵味を人為的に加えるためであろう。

このように、戦前の伝統を引き継ぎながらも、朝鮮半島のキムチに近づきつつ、その一方で、日本独自の発展を積み重ねていった。

 こうした中で、大きな変化が現れ始める。一つは、キムチの素(朝鮮漬の素)の出現である。まず、在地キムチの早漬け化が進むにしたがって、キムチ漬けの工程が単純化するが、やがて、塩漬け野菜に準備した薬味を混ぜるだけのものが現れる。これが自家製キムチの素であり、漬物の本にもそうしたものが現れる。そして、キムチの素(朝鮮漬の素)が売り出されるが、市販のキムチの素はやがて、漬物の本にも登場するようになる。

もう一つは、真っ赤なキムチの登場である。表では、1979年刊『おいしい漬けもの』(婦人之友編集部編)の「朝鮮漬」に、パプリカが使われているのがそれである。パプリカは甘酸っぱい香りとほろ苦味のある唐辛子の一品種で、この粉を加えると鮮やかな赤色に着色することができる。キムチの着色剤としてはこの他に、トマトピューレ(トマトを煮て裏ごしして濃縮したもの)などが使われる。

 在地キムチは、日本産の辛味の強い唐辛子が使われたことから、おのずと入れる量も抑えられ、あまり赤くないキムチであった。ところが、韓国のキムチに用いる唐辛子は、辛味が比較的に弱く甘味のある品種が使われ、その中でも在日系キムチは、唐辛子をたくさん入れる朝鮮半島南部のキムチの系統を引くため、当時の在地系キムチよりもずっと赤い。その部分を補完するために、パプリカなどが着色剤として使われたのである。だが、こうして在地キムチは、本場のキムチをしのぐほどの鮮やかな色に染まるようになった。

 ところで私は、最近のキムチの鮮やかな赤色には辟易することがある。それは、不自然なほどに赤いからだ。だが、どぎついとも思えるほどの赤色に染めるようになったのはなぜだろう。鮮やかな色彩を好む現代日本人の好みに適っているからだろうか。

なお、最近は韓国のキムチも、一昔前よりも赤色が濃くなった。それでも、日本ほどどぎつくはないのは救われる。

② 朝鮮料理書のキムチ

 戦後では、1960年代以降に、朝鮮料理を専門に記した料理書が刊行されるようになる。60年代および70年代の状況を以下に見てみよう。

1962年 『韓国料理』(趙重玉、柴田書店)

1970年 『朝鮮料理』(朝鮮画報社)

1974年 『韓国家庭料理 スーパースタミナ源』(韓台圭、KKベストセラーズ)

1975年 『私の韓国料理』(趙重玉、柴田書店)

1979年 『朝鮮料理調理師全書』(全鎮植・鄭大聲、柴田書店)

 漬物の本は数多く出版され、表に示したのはその一部に過ぎないのであるが、朝鮮料理の本は上記がすべて(筆者が把握している限り)である。その発行の状況は、1960年代に一冊、70年代に4冊という具合にきわめて低調で、これは朝鮮料理に対する日本人の興味の薄さを表している。

 これらの書は、日本人にほとんど知られていない朝鮮料理を紹介したいという意気込みや、在日に朝鮮料理の作り方を広める目的で書かれたものであった。著者の趙重玉と韓台圭は韓国の人で、朝鮮画報社は朝鮮総連系の出版社であり、ここでは朝鮮半島のキムチが紹介されている。そして、最後に示した書のみが、在日による朝鮮料理店の調理師のために書かれた本である。

 これらは販売部数も限られ、日本人の一般家庭で読まれることはほとんどなかった。

こうして、一般家庭では在地系キムチ、在日の家庭や朝鮮料理店では在日系や朝鮮半島系のキムチが作られるという状態が続く。だが、一般家庭でキムチをどの程度作って食べていたかについては、詳しいことはわからない。多くなかったことだけは確かである。

(3) 販売用のキムチ 

①     漬物業界のキムチ

 スーパーマーケットの漬物売り場に行くと、ビニールにパックされた色とりどりの漬物が売られている。バック詰めの漬物は昔は存在しなかったものであり、この漬物のことを「新つけもの」と呼ぶのだそうだ。これは、1955年から30年かけて開発されたもので、野菜を塩漬けして脱水し、スポンジ状にして調味液を加え、梱包・殺菌して出荷する。こうすると、出荷後の漬物液の濁りや、ガスの発生による包装袋の膨れがなくなる。つまり、人工的に発酵味を加えて作る新しい食品であって、これまでの発酵食品としての漬物とは別のものということができる。(前田安彦『新つけもの考』岩波新書、1987年)  そして、この無発酵漬物の製法が、日本のキムチにも取り入れられた。

 「新つけもの」が売り場の多くを占めるようになる前のキムチは、先の漬物の本のキムチに準じ、早漬けタイプのキムチ風漬物が主流であったと思われる。この漬物はやがて、塩漬け野菜に薬味を絡ませただけのものに発展する。

「これは白菜漬けに赤いタレをかければもう完成である。 <中略> (タレは)アミノ酸液に化学調味料、ニンニク、唐辛子を混ぜ、トマトピューレを使って着色し、白菜にかけたとき流れ落ちないよう天然ガムを加えれば完成。」(前掲書)

 この模造白菜キムチは、別名タレキムチと呼ばれた。このキムチの出現は、前田が述べるように、日本の温暖な気候にその原因の一端はあるが、それだけではない。日本のキムチはこれまで、漬け方の単純化と即席化(インスタント化)に向かって発展してきたが、これがタレキムチの出現の背景となったと考えられる。

 こうして生まれたタレキムチは、ビニールバックされて「新つけもの」や、店頭に山盛りされた即席漬けとして販売された。こうして市販のキムチは、無発酵タイプの「新つけもの」と、従来よりも更に発酵の少ない即席漬けが主流になった。味はもちろん、昆布や煮干、あるいは化学調味料で味付けされた和風味である。

 キムチの消費は徐々に伸び、1980年には全漬物の3.5%に相当する34,059トンが生産されたが、そのほとんどが、在地型キムチやその発展系のタレキムチであった。

② 韓国・朝鮮物産店のキムチ

 ところで、上述の生産統計はあくまで、通産省の管轄下にある漬物業界のものであって、中小規模の在日業者の生産量は含まれていない。その生産量は、はたしていくらあるのだろう。だが残念ながらその統計は存在しない。しかし、これらの在日系キムチの生産は、京阪神や首都圏を中心にした在日の集中地域がほとんどであり、したがって、漬物業界のキムチよりも格段に少ないと見込まれる。そして、これらキムチのほとんどは、在日の家庭や、当時大きく発展した焼肉店などで消費されたのであって、日本の一般家庭にはまだ、あまり受け入れられなかった。

 これらキムチは、在日の出身地である慶尚道や済州島などの南部地方のキムチが土台になっているため、防腐のために塩と唐辛子が多用され、ソウルのキムチとは少し異なる。さらに、温暖な気候の日本で作るために漬け上がりももう一つのように感じられる。特に、焼肉で有名な大阪・鶴橋のキムチは、商品の回転が速いためか、漬けたて(発酵する前のもの)を売る場合が多い。

 以上のように、日本のキムチは、在地系や在日系のいずれであっても、発酵のない、あるいは発酵の少ないキムチが作られ、販売されることが多い。それは、日本の温暖な気候と関連があるのかもしれない。

 ただし、朝鮮半島のキムチはすべて発酵が十分なものばかりかというと、そうではない。冬場のキムチは長期保存の必要から発酵が進むが、それ以外の季節のキムチでは早漬けのものが増えるし、夏場のキムチは気温の関係から長期保存に適さない。

 このように見ると、日本のキムチは朝鮮半島の夏場のキムチが日本的に変化したものと言えなくもない。

(4) 〝キムチの素〟の出現

 塩漬け野菜に薬味を混ぜるだけのキムチが、漬物の本に現れるようになったことは前述したが、その頃の漬物業界では、白菜漬けに赤いタレをかけただけのタレキムチが出現した。この、薬味やタレに相当するものを商品化し、売り出したものが〝キムチの素〟である。発売は1975年からという。

「焼肉」の連載で紹介したことのある〝焼肉のタレ〟は、ガスレンジや電気冷蔵庫の普及を背景として生まれたもので、新たな料理文化とみなすことができるほどの画期的な発明であった。だが〝キムチの素〟は、キムチの日本的な発展のもとでできあがったものを、そのまま商品化したものであって、自然発生的に生まれた商品と考えることができる。つまり〝キムチの素〟は、戦前のキムチ作りの伝統がたどりついた一つの到達点といえるだろう。

 話を変えて、インスタント食品の歴史を、少し振り返ってみよう。

 インスタント食品は戦前にも見られ、小菅桂子『近代日本食文化年表』(雄山閣、1997年)の大正13(1924)年条には、即席カレー、ゼリーの素、アイスクリームの素、レモン紅茶の素などの即席食品の宣伝がさかんになる、とある。だが、本格的な普及は戦後のことであった。主要なものをあげると、粉末ジュース(1954年)、日清のチキンラーメン(1958年)、インスタントコーヒーの国産化(1960年)、パック入りのインスタント味噌汁(1962年)、だしの素(1964年)、焼肉のタレ(1967年)、大塚食品のボンカレー(1968年)と続く。そして、1971年には各種の加工食品(シチュー、ぜんざいなど)が盛んに発売された。こうした一連の動きがあった後に〝キムチの素〟が発売される。この意味でも、キムチの素の革新性は大きいとはいえない。

キムチの素はまた、野菜を前処理したり、キムチの素を野菜につけてからなじむまで待たなければならないなど、インスタント食品としてはもう一歩不足する商品であった。このため、その普及も芳しいとはいえない状況にある。

 日本のキムチは、1980年代後半から大発展を遂げ、1997年以降に生産量が飛躍的に増大する。それらについては次号で紹介したい。(続く)

※『むくげ通信』206号の2004年9月の記事(https://www.ksyc.jp/mukuge/206/sasaki-k3.htm)より抜粋

今から20年ほど前に、長期の韓国出張を3度ほど経験したことがあるのですが、その時に食べたキムチの味のコクの深さというのが忘れられず、日本で食べるキムチに物足りなさを感じることがとても多いです。

今回取り上げた抜粋記事により、コクの浅い即席風の日本のキムチというのは、1961年~1980年の間に形作られたことが理解できました。

日本の中でインスタント食品が爆発的に普及した時期でもあるので、その当時の日本人の志向が反映された部分もあると思うと、そのようなキムチが普及していったことはすごく納得できます。(おもしろい!)

キムチの歴史の詳細を学ぶことで、キムチの世界に大きな広がりが出てきました。

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